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=国内=
・センチュリオン初代大統領死去
メルキド暦806年10月10日、タヂカラオ国初代大統領を務めたチャールズ・カラオ・センチュリオン氏が亡くなった。サン・ボルカノで行われた告別式には推定20万人ほどが訪れ、一時付近が混乱した。氏の遺体は火葬の後カラオ氏族の墓地へ葬られた。また葬儀後の10月15日、サン・ボルカノにおいて実に55年ぶりに降水が観測された。センチュリオン氏は晴れ男として知られており、サン・ボルカノに官邸が出来てからは近郊に雨が全く降らなくなり付近の農家に甚大な影響が出ていた。
・演習場完成
タヂカラオ戦略ミサイル軍の錬度向上を目的として、前世紀から建造が進められてきた都市型演習場が完成、稼動が開始された。演習場の保有については幾ばくかの議論がなされたが、国家の安全保障において軍事技術の向上とミサイル防衛は欠かせないという意見が大勢を占めた。コメット大統領は「国防軍はあくまで防衛戦力であり、他国の侵略に用いられるものではない」と語っている。
・リゾート地の開発進む
国際交流事業の一環としてのリゾート地の開発が近年ようやく軌道に乗り始めた。この種の施設の常として他国から人口を奪ってしまうことからその建設には反対意見が根強く、今後の施設拡大も前途多難と言えそうだ。
=国外=
・モルドール問題、再燃
モルドール連合王国(以下モルドール)が軍備拡大宣言を行ったことを受けて、ファードラウト連邦が同国に宣戦布告。モルドールはみたび戦火の危機にさらされることとなった。モルドールはアイゼンガルド時代からその外交姿勢が問題になり、未だ復興の最中にあった。ファードラウト連邦の宣戦布告に対しモルドールは何故か君主制国家連合であるフィスタニア連邦の参戦をほのめかし、戦火の拡大が懸念された。しかしジャスバル帝國のとりなしによってファードラウト連邦は宣戦布告をとりざげ、事態は一応の沈静化を見た。ジャスバル帝國の行動にも見られるようにフィスタニア連邦全体としての参戦の意思があった訳ではなく、水城帝國の情報筋によればスケアクロウ帝國も反戦派であり、参戦の可能性は低かったと考えられる。ファードラウト連邦の素早い布告撤回については、「戦争を回避する英断」との評価がある一方「そもそも短慮なのではないか」という意見が国内を二分している。コメット大統領は一連の事態のなかで公式声明は発表していないが、外務担当官は「地盤沈下事故といい、モルドール市民に同情の念を禁じえない」を語っている。
メルキド暦807年11月10日発行
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